事件経過
昭和12年(1937) 6月15日。
東京市中野区大和町の姉の家で、若妻(20)が殺害され、少年(満15歳)が愛知県に差し掛かった東海道線の車内でその夜に捕まった。
石川県金沢市の裕福な袈裟衣商の長男で、昨年10月に金沢第二中学を2年で中退してぶらぶらしていたが14日に家出して上京、叔父の家を訪ねたが叔父は仕事に出ていて叔母と近所に住むその妹の若妻がいた。
書斎の本を読んでいるうちに所持していたナイフを抜いてちょっと刺してみたいような気がし、家の中をうろうろしていると若妻が四つん這いでお尻をこちらに突き出しながら新聞を読んでいるのが目に入った。
衝動的にお尻を刺し、家中を逃げ回る若妻を追い掛けて58カ所めった切りにして殺害、35銭入りの財布を盗んで逃走したもの。
叔母は30分ほど外出しており、帰ってみると家中が血の海で、まだ息のあった若妻は「どうしてだかわからない」と言った。叔母の幼い長男が犯行を目撃しており、「姉ちゃんと兄ちゃんが取り組んだんだ。坊じゃないよ」と母親に告げた。
事件背景
被害者は商工省特許局技師の妻で海軍少将の令嬢、金沢第一高女時代にバレーボール選手として活躍、少年も試合を見に行ったことがあり、また新聞に載った写真も見ており、この美貌の人妻のことを一方的に知っていたが、この日が初対面だった。
少年は4歳の時に友人にソロバンで頭を殴られてから眼瞼下垂症(筋力の低下でマブタが勝手に閉じてしまう病気)となり、手術もうまくいかず性格が変わってしまった。内気で無口、探偵小説マニア、おしろいや口紅をつける趣味があり、逮捕時に「婦人の美容」という本を持っていた。
成績は良かったが、金に困っているわけでもないのに本を万引きしたり同級生の持ち物を盗むなどの素行の悪さで退学となった。それからは家にひきこもり、何度か家出したが、そのときはマスクをしてレインコートの襟を立てて顔を隠していた。
取り調べには興奮して泣き続け「退校させられて死にたかった」「カマボコかコンニャクのようにくにゃっとしたもののように見えたので刺した」などと自供。
父親は「親から見ると気の小さい内気な子で、そんなだいそれたことをするようにはとうてい思えませんでした」と話す。
6月15日のこの事件の前後には
5月6日〔中1(満12〜13歳)がスカート切り魔〕
5月18日〔19歳(満17〜18歳)が女体に興味を持ち姉殺害〕
6月20日〔15歳(満13〜14歳)が主人一家ら3人殺害〕
など少年の異常犯罪が続発し、特にこの事件は「思春期少年の破瓜病」による理由無き殺人事件として世間に大きな衝撃を与えた。
少年の手記
担当検事はこの事件を「動機がありながら意思がない典型的な少年犯罪」として、将来のこの種の少年犯罪研究資料とするため手記を書くように命令し、少年は6.24に文章を提出した。
以下は讀賣新聞昭和12年 6月25日朝刊に掲載されたものを元にしている。
原文は旧字旧仮名遣いで改行はひとつもないが、新字新仮名遣いに改め、文頭を一字下げ、改行を適時入れた。
叔父さんの新家屋はどんな家かと道々考えながら番地を頼りに漸く「○○○○」の表札のある家の前に来た。一目でハイカラな家を造ったと思った。
戸を開けて入ろうと思ったが不作法だと考えてベルを押した。叔母さんが出て来てマアーと暫く吃驚したような顔で無言でいたが「お入んなさい」といわれて入ると呉服屋さんが来ていた。「少し待って」と応接間に通された。
呉服屋さんが帰ってから「こちらへいらっしゃい」と呼ばれて澄井さんに紹介された。その時「御飯まだでしょう」といわれたが具合が悪かったので「食べて来た」といった。
今晩はゆっくり泊ってゆけといわれたが遅くなると叔父さんが帰って来て根掘り葉掘り聴かれるので三時ごろまでに帰るのですといった。間もなく叔母さんが使いに出て行きました。
後でよく考えてみると初め廊下の突きあたりへ行き戻るときに突くようになったと前にいいましたが、その際はせかれて問われていた際でもあるし口では明瞭に答えることが出来ませんでした。戻る際は突く気なんてなかったようです。ただ何となく気持ちは重苦しいようではありました。
そして足の向くままに書斎に入りました。戸棚の本を見ようと思って屈んだ際、刀が胸の内ポケットに入っていたのでつかえたんです。それからちょっと抜いて見る気になりちょっと恐る恐る抜いて見ました。
そのときは光っていたので何となく斬れそうに思われました。しかし人を斬ろうって考えはなかったです、が試して見たいというような気は少しあったようです。
そのときは澄井さんは斬ろうなんて大それた恐ろしい考えはなかったのです。そして刀をズボンのポケットに入れてフラフラッと足が六畳の部屋に向かったのです、が澄井さんを突くまではやや少々試して見たいという気持ちはその突くまで潜在意識として存在していたようです。
六畳の部屋に入るとすぐ精神に異状をきたしたとでもいおうか何しろいま考えると当時は普通の者とは心理状態が大分特異のものに変わっていたようです。
また死というものに対しての概念、死んだら一体どんなところへ行くのか、Aというものが死ぬとAというものはもう全然他のものとなって現れないのか。またはBとかCというようなものになって生れ変わるのか、死に直面した場合の人間の心理状態はどんなものか、生と死の境はどの辺か、地獄とか極楽とかいうものは本当にあるのかというようなずっと以前から好奇心をもって考えてきたことが急に蘇ったようでした。
それとそのときはまるで暗室に入る直前眼がくらむというようなまた頭が暗室に入れられて太陽灯にかけられているときのように明るくはあるけれどもボーンと重苦しくオゾーンでも嗅いだようでした。
眼の下に澄井さんが見えたときその辺がボンヤリと霞の中に浮かぶ島のように見えました。そして澄井さんが蒲鉾かこんにゃくのようにくにゃっとしたもののように見えました。
またその値というものも石塊か積木くらいの大きさぐらいの足に蹴飛ばしたり投げたりすることが出来るような何の値もないようなものに見えました。
またその際は突いたら血が出るとか突いたら死ぬとか自分は人殺しの犯罪人になるとかあとの者が非常に迷惑するとかいうような落着いた余裕のある考えはもち合わす間がありませんでした。
以上長く書いた気持は発作的に起ったものでその間は十秒とたたないだろうと思います。
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事件後
精神鑑定の結果不起訴となり松澤病院に入院したが、罪の意識がまったくないことと退院を希望しないこと以外は完全な正常で、7ヶ月後の昭和14年11月に退院した。
昭和15年3月、満18歳になった少年は日本大学などを受験するため上京、アパートで独り暮らしをしながら受験勉強をしていた。
ところが、4.10に神戸市から実家に「自分は死ななければならなくなった」と泣きながら電話を掛け、同じアパートに住んでいた子連れの女(27)と滋賀県大津市で心中を図って死亡した。女は軽症で姿を消した。
少年の両親は大金を費やして女の行方を捜したが見つからず、詳細は不明。
参考・讀賣新聞 朝日新聞
「日本の精神鑑定」みすず書房(この少年の精神鑑定が掲載されています)
戦前の少年犯罪