昭和2年(1927).10.25〔20歳(満18〜19歳)が陸軍要塞で強盗殺人し死刑判決〕
兵庫県津名郡(淡路島)の由良要塞で、人夫(20)が門崎砲台監守舍に押し入って就寝中の軍曹(27)の頭を棍棒でめった打ちにして殺害、軍曹の妻(20)を縛ってレイプして4円18銭を強奪して逃走、犯人捜索隊に加わり軍曹の死体を病院に運んだりしていたが逮捕された。陸軍基地で人夫になったため金には不自由せず映画やエロ本に熱中し、17歳から遊廓通いをしていた。青年団員の郵便貯金集金係として集めた19円を遊びのため使い込んでしまい、盗みを思い付いたもの。この年の銀行員大卒初任給70円。
深く罪を悔いている様子を見せていたが、11.27の夜10時に洲本刑務所を脱獄した。枕で布団を膨らませ、アルミニュームの弁当箱を頭の代わりにして寝ているように見せかけて、隠し持っていた古釘一本で天井板を破り、天井裏を通って電話線修理用の扉から出たもの。育ての親である叔父宛に「脱獄して大阪に逃走する」という内容の手紙を出してから、小さな漁船を盗んで帆を張って流れの激しい海峡を夜中に渡って和歌山市まで逃走、11.29に捕まった。「一度外へ出てみたくてたまらず、紀州へ上がり活動写真を見たら面白かった」と語る。一審二審とも死刑判決。
昭和3年(1928).9.18〔19歳日系2世が誘拐殺人〕
米国準州ハワイで、日系2世マイルス福永寛(19)が名門プナホウ・スクールからハワイ信託会社副社長の息子(10)を誘拐、身代金1万ドルを要求して父親から直接4千ドルを得たが少年を殺害して死体を遺棄、金を使ったために足がついて23日に逮捕された。山口県からの移民の子としてハワイで生まれ、貧しい両親が信託会社の集金人に侮辱された復讐をして両親を日本に帰すために金を取ったと自供。数千人がリンチにしようと警察署を取り囲み、日系人への感情が極めて悪化。1929年11.19に死刑執行。
昭和11年(1936).4.25〔19歳(満17〜18歳)が主人一家6人惨殺〕
東京市世田谷区の派出所で午前4時、頭から血を流している少年が駆け込んで来て「ただいま、自分の家の一家が殺傷されました」と訴えた。染物業宅に警察が急行すると妻(35)と長女(6)はすでに死亡、主人(35)次男(10)二女(4)と雇人(16)が瀕死の重傷で血の海にうめいており病院に運んだが、通報に来た小学5年生の長男(11)は頭蓋骨骨折の重傷、他の6人が死んだ。台所では雇人(19)がガス管をくわえて自殺を謀って倒れていたが命は取り留めた。
群馬県生まれで6年前から住み込みで真面目に働いていたが、金勘定のことでいつも叱られていた。また妻に対しておかしな態度だと注意され「世の中が嫌になったので全部殺して自分も死ぬつもりだった」と自供。深夜3時にマサカリで寝ている家族を次々襲い、柄が折れるとクワで惨殺したもの。「余り疑ふな。頼まれたからやりました」という遺書を書いていた。殺したもう1人の雇人は従兄弟に当たる。
死刑が求刑されたが、東京地裁は心神喪失だとして無期懲役判決。
昭和12年(1937).6.12〔16歳が強盗殺人で死刑判決〕
高知県高知市の荒倉峠で、少年(満16歳)が通行人の頭を斧で殴って殺害して現金26銭入りのサイフを強奪して逃走した。6.24に高知市の顔見知りの運動具店で、主人の妻(24)の頭をカナヅチで滅多打ちにして重体とし、現金116円を強奪して逃走、逮捕された。
幼い時に母と死に別れ、父は長崎に行ったきり帰ってこず、叔父に育てられて高等小学校を中退してから職を転々としており、父に会いに行く旅費を稼ぐために強盗を繰り返していたもの。一審死刑だったが、二審で無期懲役が確定した。
昭和13年(1938).12.12〔20歳(満18〜19歳)ら2人が強盗殺人で死刑〕
東京市小石川区の金物商宅で早朝、無職少年(20)と無職男(26)の2人組が押し入り、就寝中の店員(15)を刺殺、女主人(28)の夫(36)を刺殺、女主人に重傷を負わせて逃走、少年は12.13に、男は翌年9.1に逮捕された。更新会(左翼系の貧民支援団体と思われる)に泊まっていて知り合い、故郷の群馬県勢多郡と神奈川県に帰る汽車賃を更新会にもらいながら、少年がかつて働いていた金物商に強盗に入るよう誘い、その店で海軍ナイフを買って夜から庭先に潜んでいたもの。怨みのあった女主人の弟と間違えて夫をめった刺しにし、女主人も殺そうとしたが暗闇の中で同士討ちをしてケガを負ったため金も盗らずに逃げていた。主犯の少年は東京地裁で死刑判決。
昭和15年(1940).7.25〔19歳(満17〜18歳)が強盗殺人で死刑判決〕
奈良県吉野郡で、少年(19)が鉱山会計係男性を惨殺して1500円を強奪し逮捕された。徳島県出身で大阪府布施市に住んでいた。奈良地裁で求刑通り死刑判決。
昭和17年(1942).10.12〔18歳の浜松9人連続殺人事件〕
静岡県浜松において9人を次々殺害し6人に傷害を負わせた犯人が捕まった。中村誠策(最後の犯行時満18歳)は満17歳だった昭和16年8.18に置屋に侵入して芸妓を刺殺、もう1人の芸妓に重傷を負わせて逃走。8.20には料理屋に侵入、就寝中の女将(44)、女中(16)、雇い人(67)を殺害。警察の取り調べを受けながら、9.27には自宅で強盗を装って兄を殺害、兄の妻、父親と姉に重傷を負わせた。昭和17年8.30には電車でたまたま乗り合わせた女性(19)の家に侵入、女性と両親と弟を殺害。10.12に逮捕され、翌日に犯行を自白した。これとは別に4年前の昭和13年8.22未明に置屋に侵入して女将と芸妓をナイフで刺して重傷を負わせ逃走した事件も自供した。
兄弟7人のうち誠策だけが生まれつきの聾唖者で家族から冷たくあつかわれていた。知能は高く聾唖学校で1番の成績、学費を自分で稼ぐためと強姦目的の犯行だった。
逮捕直後に父親は世間に申し訳ないと自殺。戦時刑事特別法によって二審だけですみやかに死刑判決が確定し処刑された。
※少年犯罪データベース主宰・管賀江留郎
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』で、この事件の詳細を解き明しています。
昭和17年(1942).12.18〔19歳(満17〜18歳)ら5人がレイプ殺人の冤罪で拷問死〕
香川県小豆島の路上で、女性(25)が投火管制下に両親の薬を持ち帰るために歩いていて、空き家に連れ込まれてレイプされ4円70銭を強奪されて絞殺された。工員(19〜23)5人が戦時強盗強姦殺人で逮捕され、拷問で3人(19,20,21)が留置所で死亡、残った2人(23)が自供して高松地裁で死刑判決が出たが、昭和21年9.1に最高裁で無罪となった。
昭和19年(1944).7.29〔中4(満16〜17歳)が同性愛の果てに友人一家3人殺害〕
神奈川県足柄上郡の友人宅で、東京都大森区の旧制中学4年生(18)が深夜1時過ぎに中学1年生の友人(14)を殺害、友人の祖父と祖母も殺害し、母親に重傷を負わせ、放火して裏山に逃走したが家が全焼したことに安心して降りてきたところを捜査中の警官に逮捕された。
近所に住み同じ中学校に通っていた中1生と同性愛の関係になったが、中1生が家庭の事情から祖父母と同居するようになって遠距離恋愛となってしまった。逢えないことに悩み、それならいっそ彼をこの世にないものにしてしまおうと、出刃包丁とナイフを用意して遊びに行って泊まり、就寝中に襲ったもの。一度逃走したが、証拠隠滅のため戻って放火したと自供。伯爵の孫。
死刑が確定したが、昭和23年10月に恩赦で無期懲役に減刑された。
昭和20年(1945).12.19〔18歳が米軍基地でMP殺害し死刑〕
北海道札幌市の米軍基地で深夜2時、少年(17,18)3人が侵入して倉庫から物資を盗もうとして米軍MPに捕まったが、田村勝則(18)がMPを銃剣で刺殺して逃走、23日に逮捕された。少年保護更正施設に3人とも窃盗で入っており、施設を抜け出して数回この米軍基地で窃盗を働いていた。
翌年1.23に米軍の軍法会議で田村は死刑確定、5.17に東京の巣鴨プリズンで絞首刑執行。17歳と18歳は沖縄での強制労働30年となった。
昭和21年(1946).7.9〔19歳ニートら2人組が山小屋で2人殺害で死刑〕
長野県北安曇郡の山小屋で、神戸市の無職・斉藤和一(満19歳)と広島市の造船工・香川義春(満24歳)が、就寝中の慈恵医大生4人の頭を木の棒で殴って本科3年生(25)と予科3年生(22)を殺害、2人を3ヶ月と3週間の重傷とし、現金、カメラ、腕時計などを強奪して逃走したが、すぐに逮捕された。
ぶらぶらと遊んで暮らしていたが、登山マニアの造船工が誘って装備も食料もなしに山に来て、大学生たちの豪華な食料を奪うために最初から皆殺しにするつもりで襲ったもの。昭和22年に最高裁で2人とも死刑確定。昭和23年7.13、死刑執行。
昭和21年(1946).9.16〔19歳ニートが母親と妹殺害して死刑〕
広島県佐伯郡の自宅で、無職の邑神一行(満19歳)が母親(49)と妹(16)を殺害した。自動車会社の金を使い込んでクビとなって2月に実家に帰ったが、田舍の仕事を嫌って働かず、母と妹の内職でかろうじて食べていた家計を圧迫したため冷たくされ、妹に「仕事もせずに遊んでいる者は飯を食べなくてもよい」と云われたことから殺人を計画、深夜1時に就寝中の2人の顔をワラ打槌で殴って死体を井戸に捨てた。翌年1.17、2人が行方不明になったことを不審に思った友人に死体を発見されて逮捕。父親は小4のときに死んでおり、貧しい家庭だった。
1審無期だったが、2審で死刑判決が出て、死刑は残虐で憲法違反と上訴。最高裁は「一人の生命は、全地球よりも重い」としながらも、死刑は必ずしも残虐とは云えないと上告棄却して死刑が確定した。
昭和22年(1947).2.3〔19歳(満17〜18歳)ら2人組が5人強盗殺人〕
静岡県静岡市の雑貨商宅で深夜2時、ブローカー2人(19,20)が押し入り、主人の妻(35)、母親、長男(6)、長女(6)、次男(5)の5人を15分で絞殺、現金、服などを強奪して逃走したが9日に千葉県松戸市で逮捕。この雑貨商に闇米などを売って出入りしていたため金を持っていることを知っていて、計画的に襲ったもの。20歳は逮捕直後にナイフで自殺を図ったが命を取り留めた。一審で2人とも死刑判決が出たが、二審で1人は無期懲役、1人は死亡したため控訴棄却となった。
昭和22年(1947).5.23〔19歳が兄の身代わりとなって死刑〕
兵庫県赤穂郡で、農業の兄弟が農家に斧を持って押し入り、夫婦(35,37)を殴り殺し衣類を強奪して逃走、逮捕された。弟の古川高志(満19歳)は自分がふたりとも殺した主犯だと主張したため、兄(29)は一審で無期懲役判決が出て確定した。古川高志は一審死刑判決となり、二審から殺人は兄ひとりがやったことだと主張を変えたが、最高裁で死刑が確定した。裁判中は弟が主犯だと証言していた兄も、死刑が確定したあとに自分が主犯だと認める手紙を大阪拘置所教育課長に出し、これを元に再審請求されたが却下され、昭和28年に死刑執行された。
※村野薫
『戦後死刑囚列伝』に詳しい。
昭和22年(1947).6.22〔18歳(満16〜17歳)ら少年強盗殺人事件〕
愛知県名古屋市で、無職(17〜18)5人が民家に強盗に押し入り、女性(50)とたまたま泊まりに来ていた隣家の女性(50)を殴りつけ手足を縛りフトン蒸しにして2人とも窒息死させた。襖に「サツの馬鹿野郎」などと書きなぐり、飯を喰い、鏡台に小便をかけ、女性の枕元に脱糞し、家のなかを荒らし回り、金品を奪った。
これまでも乱暴な強盗事件を起こしていた主犯の18歳は一審で死刑判決を受け、弁護士や裁判官にまで奨められたがどうでもいいと控訴せず、死刑が確定した。昭和23年までの旧少年法では犯行時満16歳以上なら死刑にできたが、昭和24年1.1に改正された新少年法で18歳未満は死刑を適用できなくなったことを考慮して2年後に恩赦減刑となり、そののち出所がゆるされた。
昭和22年(1947).12.18〔17歳ニートが働くのが嫌で幼女ら2人を強盗殺人〕
鹿児島県鹿児島市の雑貨商宅で、無職(満17歳)が押し入り、主人(41)、長女(5)の頭を斧でめった打ちにして殺害、妻(31)に瀕死の重傷を負わせ、3千4百円と衣類などを強奪、証拠隠滅のため放火して屋久島に逃走したが逮捕された。
横浜市の関東学院中等部2年生のときに窃盗で中退、軍属となったが1ヶ月で逃走して窃盗や強盗で満15歳の時の昭和20年7.17に軍法会議にかけられ昭和22年11.23に刑務所を仮出所、見習い工になったが働くのが嫌いで退職し、暖かいだろうという理由で鹿児島に来たがおもしろくないので帰る金を盗ろうとしたもの。裁判長に「働いて旅費を稼ごうとは考えなかったのか」と問われて「働くのは嫌だ」「殺しても悪いと思わぬ」と答える。昭和23年11.29に福岡高裁は死刑判決を出したが、少年法改正に伴い昭和24年4.6に恩赦で無期に減刑された。
精神障害となり医療刑務所に移され、現在、無期懲役受刑者として60年の最長の服役となっている。※
『司法精神医学研究』による。
昭和23年(1948).2.5〔18歳ニートが告げ口恨んで母子殺害して死刑〕
和歌山県日高郡の民家で、無職(満18歳)が押し入り主婦(41)を出刃包丁で刺殺、長男(12)をタオルで絞殺、服などを強奪した。元少年航空兵で、終戦後は大工見習い学校に学んだが卒業後も働かずに街で遊び歩いていた。そのことを主婦が両親に告げて叱られたため怨みに思い、金もないので殺害して強奪することを計画、2人暮らしの息子を残しては仇となるので併せて殺害を決意して就寝中に襲ったもの。昭和24年2.15に最高裁で死刑確定。
昭和23年(1948).4.10〔19歳(満17〜18歳)が主人一家3人皆殺し〕
群馬県碓氷郡の農家で夜11時、雇人(19)が就寝中の主人(51)、主人の長女(20)、次女(15)ら3人を手斧で惨殺、現金2千5百円と衣類を強奪して逃走したが、4.19に名古屋市の派出所で自首した。満州で終戦時に一家離散となり、両親は病死して妹は行方不明、シベリア抑留を経て一年前に引揚げ、この家で働いていたが叱られたのでカッとしたもの。自殺か自首かで悩んで自首した。
6.16に前橋地裁高崎支部は死刑判決を出した。
昭和23年(1948).4.20〔18歳が強盗殺人放火で死刑判決〕
宮城県仙台市で、電気工(18)が知り合いの女性(51)を殺害して放火、衣類40点を強奪して逃走したが4.22に古着屋に売りに来て逮捕された。秋田県で就職するための費用が必要となり、娘の仕送りで裕福な独り暮らしの女性宅を訪れ、金のありかを確かめるために千円を貸してくれと頼んだが、「このガキ」と火箸で威嚇されたためカナヅチで頭を殴ったもの。昭和25年1.25、仙台高裁で死刑判決。
昭和23年(1948).4.25〔18歳(満16〜17歳)ら4人組が4人強盗殺人〕
静岡県浜名郡の会社員宅で夜、少年2人(18)、中国人2人(18,20)の4人組が押し入り、主人の妻(29)、長女(3)、泊まりに来ていた隣家の妻(23)、長男(3)の4人を荒縄で絞殺、現金、服、自転車などを強奪して逃走したが5.4に逮捕。チャイナ賭博をやっていたが取り締まりが厳しくなって強盗になったもの。
一審で日本人少年は2人とも死刑判決が出たが、二審で無期懲役。中国人は占領当時の日本には刑事裁判権がなく、占領軍の軍事法廷で重労働三十年の判決。昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効により軍事法廷判決は無効となって浜松地検が再審理することになった。中国人ふたりは見張りをしていただけと主張している。
昭和23年(1948).6.11〔18歳小学校教師が叱られたため両親殺害して死刑〕
広島県加茂郡の自宅で、小学校教師(満18歳)が入浴中の母親(53)を「よう虐めてくれたのう」と匕首で刺し、許しを乞うて逃げようとするのをさらに刺して殺害、父親(57)を玄関で待ち伏せして刺殺した。ひとり息子で、2年前に私立中学を卒業して小学校の助教員となった。元少尉で厳格な両親は細かいことでたびたび干渉して殴るため怨んで殺害計画を立てていたが、同僚女性教員(満21歳)と教室で関係して妊娠させ、墮胎させようとしたことでこの日に激しく叱られ殴られたため復讐したもの。昭和25年2月に最高裁で死刑確定。のちに恩赦で無期に減刑。
昭和23年(1948).8.31〔15歳が祖父母強盗殺人〕
福島県石城郡の農家で、この家の孫の無職(満15歳)と仲間の無職(満21歳)が押し入り、祖父(79)と祖母(75)を縛り上げて現金4千5百円と服6千円相当を強奪したが、覆面が取れて孫だということがバレたため、口と鼻を布で覆ってからフトンで全身を巻いて、窒息することが判りながらそのまま逃走、殺害した。母親は3歳の時に、父親は7歳の時に死亡して他家で育てられ、この年の3月に祖父母に引き取られて農業の手伝いをしていたが、おねしょ癖をたびたび叱られて8.25に3百円をもらって家を出た。金を使い果たして茨城県の水戸駅で寝泊まりしているうち8.30に21歳と知り合って強盗に誘い、その日に向かったもの。死刑が求刑され高裁も死刑相当と認定したが、昭和24年1.1に改正された新少年法を考慮して無期となった。昭和23年までの旧少年法では犯行時満16歳未満なら死刑にも無期にもできない。
昭和23年(1948).9.8〔19歳(満17〜18歳)が強盗殺人で死刑判決を受けるが無罪放免計画〕
広島県豊田郡の民家で夜11時、無職(19)と少年(18)3人の4人組が押し入り、主婦(26)を殺害、衣類85点(10万円相当)を強奪して逃走したが、翌日逮捕された。3月に病死した無職の姉がこの家の主人(29)の先妻だったため内情に詳しく主人がいないことを知っていて、遊興費欲しさに侵入したが覆面が取れて顔を見られたため紐で絞殺したもの。18歳1人は仲間が捕まったと聞いて「自決してお詫びします」という遺書を残し昇汞水を飲んで自殺した。
無職は広島地裁で死刑判決が出たが、2審公判中の昭和25年7.19に窃盗罪で懲役2年の台湾人(25)が自分が真犯人で無職は無罪だと獄中から名乗り出た。事件の詳細を語るので事実ではないかと検察も混乱したが、刑務所内で暗号通信により計画した嘘だったことが8.19に判明した。
女の子(3)を殺害したもう1人の強盗殺人無期懲役犯(21)と無職が無罪釈放となった場合の刑事補償金40万円はこの男がもらい、男も精神異常を理由に出獄、それがダメでも占領下の日本には台湾人に対する裁判権がないと主張する予定だった。
※大正11年施行の旧少年法では、犯行時満16歳未満の場合は死刑および無期刑にはできず、死刑や無期刑に相当する罪は10年以上15年以下の懲役と定められていた。
昭和24年1月1日に改正された現行の少年法により、満18歳未満の場合は死刑にはできず、死刑に相当する罪は無期刑と改められた。※
昭和24年(1949).6.3〔19歳が一家4人を強盗殺人で死刑〕
福島県石城郡高久村の開墾入植者宅で、少年(満19歳)が強盗に押し入って、夫婦、長男(9)、次男(4)の一家4人を就寝中にナイフで全身めった切りにして殺害。金に困ったもの。昭和26年7月、死刑確定。
昭和24年(1949).9.14〔19歳(満17〜18歳)が覗きで隣りの銭湯一家5人殺害〕
神奈川県小田原市の銭湯に深夜1時過ぎ、隣家の無職(19)が押し入り、主人(48)、妻(43)、母親(81)、長女(19)をナタでめった打ちにして、次女(7)、長男(4)の首を肉切り包丁で切り、長女を除く5人を即死させた。長女は病院で危篤状態。2月に工場を辞めてからぶらぶらしており、日頃からトラブルが絶えず、3ヶ月前に2階から浴場を覗くので窓をふさいだことに激怒、1ヶ月前から包丁を買って研いでいた。自宅から猟奇小説雑誌が大量に発見された。
横浜地裁で死刑判決が出て控訴しない手続きをとっていたが、判決を出した裁判官が死刑反対論者で涙を流して上告を勧めた。結局、昭和27年に最高裁で死刑が確定したが、その年のサンフランシスコ講和条約恩赦で無期に減刑、昭和45年に仮釈放された。
昭和59年7.8、53歳になった男は東京都杉並区の路上で、中学3年生(14)と2年生(13)の女子2人を登山ナイフでめった刺しにして逮捕された。小学生の時から2人と交際し、家出中の2年生と横浜市のアパートで同棲していたが別れ話をされて、3年生のせいだと疑って3年生の自宅に押し掛けた。そこにいた友人7人に「歳が違い過ぎる」「おじさん帰れよ」などと言われてケンカして家を出て、激怒して2人とも殺そうと呼び出し首や顔などを刺して2ヶ月と3週間の重傷を負わせたもの。殺人未遂で東京地裁は懲役8年の判決を出した。3年生はシンナー遊びで2回の補導歴がある。
昭和24年(1949).10.1〔19歳らが日本刀で4人を殺害し死刑〕
長野県南安曇郡の農家に、松下今朝敏(満19歳)、定時制農業高校生(17)の2人が押し入り、就寝中の主人(41)、妻(38)、長男(15)、長女(4)の4人を日本刀で殺害し、腕時計などを強奪、10.30に逮捕された。農業の男(35)が分家の被害者に去年財産分けした田畑が惜しく、金目当ての傷害で執行猶予中だった松下にやらせたもの。
高校生は殺人で懲役15年、男は殺人幇助で死刑、松下は殺人で1審無期懲役、昭和33年5月に最高裁で死刑が確定したが、7.7に松下は「死刑受執行義務不存在確認請求」の行政訴訟を起こす。死刑執行の方法は明治6年の「太政官布告六十五号」に拠っているが、新憲法により失効している。また、刑法で定められた方法は「絞首」だが、現在行われているのは自分の体重で首が絞まる「縊首」であるとして、死刑を受ける義務はないとしたもの。同時にこの訴訟の判決が出るまで、死刑執行停止の仮処分請求も行い、東京地裁は執行停止決定を出した。
昭和36年7.16、太政官布告は新憲法のもとでも法律と同じ効力を持つという刑事裁判上の判決が出て、12.5に最高裁は「死刑執行方法の可否は刑事裁判で争うべきことで、行政訴訟として取り上げることは許されない」と訴えを却下した。
昭和25年(1950).1.6〔18歳が強盗殺人で死刑判決が出るが冤罪 二俣事件〕
静岡県磐田郡二俣町で、主人(46)と妻(33)が匕首で刺殺、長女(2)が絞殺され、次女(0)も母親の死体で圧死、1300円を強奪された。2.23に少年(18)が逮捕され、拷問によって自白した。一審、二審とも死刑判決が出たが、最高裁は「自白の真実性が疑われる」と差し戻し、昭和32年10.26に東京高裁で無罪が確定した。
昭和25年(1950).4.26〔18歳が少年は罪にならないと強盗殺人で死刑〕
宮城県仙台市の魚屋で深夜2時過ぎ、無職(16,18)2人が押し入り、マサカリとナタで就寝中の主人(42)を意識不明の重体、妻(36)を殺害、店員(20)を50日の重傷として、現金10万円と預金通帳を強奪して逃走したが4.29に東京で逮捕された。少年院で知り合い、1月に釈放されてから一緒に暮らしていたが、近所の食堂で魚屋が金持ちだと聞き、「俺たちは未成年だから人を殺しても罪にならない。やるならいまだなあ」と云っていた。この年の大卒銀行員初任給3,000円。
18歳は一審無期だったが最高裁で死刑確定、昭和30年1月29日処刑。16歳は懲役15年の判決。
昭和25年(1950).5.7〔19歳が一家四人皆殺しで死刑判決を受けるが冤罪〕
千葉県東葛飾郡で、何者かが闇ブローカー宅に押し入り、主人(33)、妻(30)、長男(5)、次男(2)らの頭をナタのようなもので殴って一家四人を殺害して逃走した。11月27日に599人目の容疑者として店員(19)が逮捕され、否認を続けたが拘留107日目に現金二千三百円を奪ったと強盗殺人を自白した。公判でも自供は拷問によるものと無罪を主張し、昭和32年7月に死刑を求刑された被告としては異例の保釈となったが、昭和33年9月に千葉地裁は死刑判決。昭和36年5月30日に東京高裁は自白の任意性に疑問があるとして無罪判決を出し、そのまま確定した。一日最高四百円、合計136万5千6百円の刑事補償を行う決定が出された。
昭和25年(1950).9.26〔19歳が恋人など2人殺害〕
神奈川県藤沢市の海岸で、秋田県庁職員(19)が恋人の女給(18)を絞殺して自首した。2年前から交際しており、秋田市から家出して熱海で遊んだあとに心中するつもりで頼まれたのでウイスキーを多量に飲ませて意識を失わせてから殺害したと自供。優等生だったが不良化したため旧制中学を4年で中退、潜水夫など職を転々として役所に優秀な成績で合格したばかりだった。嘱託殺人で懲役1年判決が地裁で出たが、控訴したため12.1に保釈。
2週間後の12.18に山形県新庄市の特殊飲食店(現在の特殊浴場と同じく表向き飲食店の風俗店)で女給(23)に多量に酒を飲ませて熟睡させてから深夜2時に紐で絞殺、ナイフで性器を14回、乳房を2回刺し、死体に小便をかけて逃走したが翌日に自首した。一度秋田に戻ったが家族や周りから冷たくされヤケになり、華々しい犯罪をやって世間をアッと云わせたかったと自供。法廷では頼まれたので殺害したと自供を翻したが、殺人と死体損壊で懲役20年となった。恋人殺害については控訴を取り下げ懲役1年が確定し、二件合わせた判決とはならなかった。
模範囚だったため国連加盟恩赦で減刑、昭和32年7月に仮釈放、秋田市の実家に戻ったが、12.12に家出、12.18に鹿児島市の特殊飲食店で女給(25)に多量に酒を飲ませて熟睡させてから紐で絞殺、ナイフで性器をえぐって乳房を刺して、翌日大阪府警に自首した。頼まれたので殺害したと自供。弁護側は心神耗弱を主張したが、死刑が確定した。
昭和26年(1951).9.17〔18歳が父親殺害〕
長野県北佐久郡軽井沢町の自宅で夜10時半、次男(18)が就寝中の父親(58)の頭を薪割りで殴って殺害、継母(42)の頭も殴って重傷を負わせて、金を盗み服を着替えて医者を呼んでくると妹に告げて出掛け、風俗店で馴染みの女と寝ているところを翌朝逮捕された。高校生の頃から風俗店に通うなど素行が悪く3月に退学となり、ホテルの洗濯係りとして働いていた。祖母、兄、妹2人の7人家族。6年前に実母と死別、別荘管理人の父親は厳格で、日頃から仲が悪かった。取調べでも罪の意識はなく、目的を果たした満足感だけがあると自供。
死刑が求刑されたが、地裁は少年であることなどを考慮し無期懲役判決。
昭和26年(1951).11.13〔20歳ニートが死刑囚になりたくて強盗殺人〕※参考
大阪府守口市で朝4時半、無職(20)がクリーニング店に押し入り、主人(27)をナイフで刺殺、妻(24)に3週間の傷害を負わせて時計を強奪、翌日逮捕された。日記には「何か世の中をアッといわせたい」「いよいよ決行」と書いていた。ビクトル・ユーゴーの
『死刑囚最後の日』を読んで死刑囚にあこがれたもの。死刑が求刑されたが、大阪地裁は無期懲役判決。
昭和27年(1952).3.3〔19歳が2人を強盗殺人で死刑〕
静岡県駿東郡の御殿場町役場で、少年(19)が深夜0時過ぎに強盗に押し入って、宿直員(21,29)2人の頭や顔を薪割りでめった打ちにして殺害、現金4,750円と腕時計などを強奪して逃走、3.20に逮捕された。風俗店に通い詰めて、金に困ったもの。この年の大卒銀行員初任給5,600円。昭和28年11.19、最高裁で死刑確定。
昭和27年(1952).10.23〔18歳ニートが働けと云われて母子殺害〕
兵庫県神戸市の毛糸商宅で、主人の従兄弟の無職(18)が毛糸商の妻(21)に女を買うための金を6千円借してほしいと頼んだが「金が欲しかったら自分で働きなさい」と断られ、さらに関係を迫ると罵倒されたため用意していた紐で絞殺、そばで泣く長女(1)も顔を知られているため絞殺して、いったん逃走したが戻って生き返らないように2人の首を包丁で切り、妻の首に包丁を刺したまま強盗の仕業に見せかけるため時計、カメラ、2千円を強奪して妻の下半身をハダカにして多可郡の自宅に逃走、10.25に逮捕された。
古物商の三男で、高校を1年で中退し、毛糸商の兄の雑貨屋で店員見習いとなったがすぐに辞めてぶらぶらしていた。事件後は背広と靴を新調し、それまでどおりに平然と明石市の自動車学校に通っていた。留置所では「お母ちゃんに逢わせてくれ」「死刑になるでしょうか」と怯えて泣き続けた。毛糸商(28)は年商1千万円と裕福で、妻は妊娠9ヶ月だった。この年の大卒銀行員初任給5,600円。
強盗殺人で死刑が求刑されたが、神戸地裁は金を盗ったのは強盗に見せかけるためだったとして殺人と窃盗で無期懲役判決を出した。
昭和27年(1952).12.17〔19歳ら兄弟が主人一家4人皆殺し〕
大阪府大阪市の銭湯で朝5時、住み込み従業員(19)とその兄(22)の2人が、就寝中の女性主人(30)とその愛人男性(22)、女性主人の妹(24)とその長女(1)を斧でめった打ちにして惨殺、9千円と預金通帳を盗んで逃走したが預金は9百円しか入っておらず、すぐに金を使い果たし、弟は19日に実家の石川県七尾市で捕まり、兄は21日に訪ねた東京都港区の長兄宅で逮捕された。兄もこの風呂屋で住み込みの釜炊きをしていたが、怠け癖から12.10にクビとなってぶらぶらして金に困り、女主人が家を売って20万円を所持していることを知って殺害して強奪することを計画、弟に斧を用意させ見張りをさせて実行したもの。この年の大卒銀行員初任給5,600円。
一審で兄は死刑、弟も共同正犯で無期となったが、弟は直接殺害はしていないため二審で懲役15年となった。
昭和28年(1953).7.24〔19歳らのバー・メッカ殺人事件〕
東京都港区新橋のバー「メッカ」で、天井から血が滴り証券ブローカー(39)の死体が発見され、10.12までに正田昭(24)、ボーイ(19)、男(22)の3人が逮捕された。証券会社をクビになった正田が、借金に困って知り合いの被害者を電気コードで絞殺して鈍器でめった打ちにして、41万円を奪ったもの。アプレゲール犯罪として大きく騒がれ、主犯の正田は昭和38年死刑確定。昭和44年死刑執行。
昭和28年(1953).9.15〔19歳が主人一家4人を皆殺しして死刑〕
大阪府大阪市松屋町筋の菓子問屋で朝5時、住み込み店員(19)が主人(27)、妻(26)、長女(3)、次女(1)を殺害、5百円を強奪して逃走したがすぐに逮捕された。低賃金で粗末な食事を出し人使いの荒い主人や妻に反感を募らせ、想いを寄せている女子店員が9.13に主人に叱かられてクビにされたことにカッとして、就寝中に角材で殴りつけた上にジャックナイフで刺して一家皆殺しにしたもの。昭和31年12.17、最高裁で死刑確定。
昭和29年(1954).2.7〔19歳が叔父と叔母を殺害〕
秋田県平鹿郡で、秋田短大商経科1年生(19)が叔父宅に行って泊めてくれと頼んだが、叔母(53)が断ったためにカッとして喉を殴って気絶させた。逃げようとしたが隣の部屋で寝ていた叔父(59)が異変に目を覚ましたため殺してしまおうと決意、2人の頭を鉄棒で滅多打ちにしてから出刃包丁で首などを何度も刺して殺害、強姦されたように見せるため叔母の下半身を露出して逃走した。叔父は資産家の元町長で、これまでもたびたびこずかいをねだっていた。
翌日に秋田市の自宅に帰って母親(43)に犯行を告げると自首を勧められたが、何食わぬ顔で叔父宅に行って葬式を手伝い、2.27に参考人として警察に呼び出されたため家出、3日後に戻って「どうしても死ねなかった。どんなことがあってもお母さんと一緒に生きたい」と泣くので、母親は旅支度を整えた上に8千円を渡して北海道へ逃がした。この年の大卒銀行員初任給5,600円。女友達(21)に出した手紙から居所がバレて、3.18に函館市の旅館で逮捕された。
動機を訊かれて「何もない、あの時の気持ちをいま考えると不思議に思う」と話す。母親は「性質、学業とも普通で、母親思いだった」と語る。女友達も犯行当日に殺したことを告白されたが、最後まで一切秘密にしていた。母親は警察の追及を受けても嘘をつき、家出した時は自殺したと思って、殺人のためと見られないように女のために死ぬという遺書まで偽装していた。
川崎市に住んでいた従兄弟(24)が2.25に逮捕されて深夜に及ぶ厳しい取調べのため秋田に来たこともないのに犯行を自供して起訴されるところだったが、まったく無関係と判明して3.20に釈放された。
死刑が求刑されたが一審は無期判決、「有期懲役を期待していたのに無期懲役とは意外だった」と即日控訴したが、二審で控訴棄却となり確定した。
昭和29年(1954).7.9〔17歳が首相暗殺計画〕
東京都の首相官邸前で、深夜2時に歩いている少年を警官が職務質問すると13センチの果物ナイフを持っており、「指揮権発動などするような吉田首相がいては日本の将来は真暗なので暗殺しようとした」と自供した。渋谷区の果物店員(17)で、官邸に忍び込もうとしたが鉄条網のためできず、腕は傷だらけだった。
昭和33年7.28、21歳になった男は神奈川県相模湖町の民家に侵入して主婦(22)を絞殺、2千5百円を強奪し、強盗殺人と強姦未遂で逮捕、横浜地裁は死刑判決を出した。
昭和29年(1954).10.29〔18歳ら2人が平塚のプール管理人殺し〕
神奈川県平塚市で、工員(18)と電気工(19)の2人が市営プール内の管理人宅に押し入り、子供(2)の前で管理人の妻(36)に服を脱ぐように強要し、首を絞めた上に刺殺し、現金8百円や背広など強奪、逃走したが11.4に逮捕された。パチンコで小遣いを使い果たし、金が目的だったが、前日にたまたま民家で全裸の女性が激しく踊っていたのを目撃したため女の裸が見たくなり、水泳にたびたび来て顔見知りの管理人の妻を狙ったが殺すつもりはなかったと自供。1審で2人とも少年としては異例の死刑判決を受けて救済運動など世間に大きな反響を呼び、2審で無期懲役に減刑された。
昭和29年(1954).11.27〔18歳が2人を強盗殺人で死刑〕
北海道千歳郡で、米軍駐留基地のバーテンダー山野井鴻志(18)が、自宅裏の顔見知りの質店にクワの柄を持って押し入り主人(59)と妻(53)を殴り殺し、次男(15)に重傷を負わせ、現金1万6千円と預金通帳を奪った。殺した後に用意した長靴に履き替えて現場に戻って足跡をつけて二人組の仕業に見せかける偽装もしていた。遊ぶ金欲しさ。一審無期だったが昭和32年8.30に最高裁で死刑が確定し、18歳4ヶ月で戦後最年少の死刑囚となった。
昭和30年(1955).2.2〔19歳が福笑い強盗殺人で死刑〕
東京都八王子市の小料理屋で深夜1時、無職(19)と無職(20)が経営者女性(41)を殺害、現金1万7千円と通帳を強奪して逃走、26日に逮捕された。少年院で知り合いだった2人は1.20にたまたま再会して強盗を計画、顔見知りの経営者女性を訪ねて、福笑いで目隠しして遊んでいるときに絞殺したもの。ほかにも強盗殺人未遂を犯しており、昭和34年6.16に最高裁で2人とも死刑確定。
昭和31年(1956).11.12〔17歳が幼女をレイプ殺害〕
青森県弘前市の旅館で、従業員(17)が近所の小学1年生の女の子(7)を連れ込んでレイプして絞殺、死体を自室の天井裏に隠して、客から預かった19万4千円を持ち逃げ、秋田、大阪、熱海で豪遊して11.19に東京浅草の旅館で逮捕された。この年の大卒銀行員初任給5,600円。旭川市の高校を中退して、父親が番頭をやっている旅館に勤めるようになっていた。
懲役15年の判決を受け、昭和41年2月に少年刑務所を仮出所。上京して洋服店で仕立て職人となった。昭和42年8.2、27歳になった高橋正彦は浅草の飲み屋で、女将(41)に女の紹介を断られてカッとしてナイフで刺殺して逃走。
昭和43年1.1、渋谷の旅館で、連れ込んだ小料理店女中(34)をナイフで97カ所刺して腹を十文字に切り裂き内臓を引き出して逃走。
7.12、新宿区の飲み屋で、女将(48)をナイフで刺して3週間の重傷を負わせて逃走、悲鳴を聞きつけた隣の店のバーテンなどに捕まった。
昭和43年10月、東京地裁で死刑判決。控訴を取り下げて確定。昭和47年8月に死刑執行。
昭和31年(1956).11.20〔18歳が幼女を強盗殺人して死刑〕
北海道美唄市の菓子店に、炭坑雑役夫(18)が押し入り、経営者女性(40)を斧で襲って重傷を負わせ、娘(10)を殺害した。窃盗も数件犯しており、札幌地裁は死刑判決を出した。
昭和32年(1957).2.14〔19歳が強盗殺人〕
島根県益田市の農家で、無職(19)が押し入りマキ割りで夫婦(45,48)を殺害、現金二千円を強奪して逃走したが逮捕された。パチンコで金に困って遠くに行く旅費を得ようとしたもの。死刑が求刑されたが貧困家庭と少年であることを考慮されて、松江地裁は12.12に無期懲役判決を出した。
昭和32年(1957).12.17〔19歳が授業中の小6少女を誘拐殺人 郁恵ちゃん殺し〕
福岡県田川市の小学校で、左官見習いの久保章(19)が「お母さんが急病だから迎えに来た」と授業中の小学6年生の少女(11)を連れ出し山中に誘拐、少女が悲鳴を上げて逃げ出したので両手や紐で絞殺、その後に「3万円持ってこい。警察に知らせたら娘の命はないものと思え」と身代金要求の脅迫状を家に届けた。翌日、ズボンを脱がされた少女の死体が発見され、犯人も特定されたが17日間も逃走して翌年1.2に逮捕された。
家出中で、小遣銭に窮し漫画難誌からヒントを得て、登校中にたまたま見かけた少女を狙ったもの。2回の非行歴がある札付き。昭和35年6月、最高裁で死刑確定。
昭和33年(1958).2.18〔18歳がレイプ殺人してさらに強盗殺人〕
北海道稚内市の牧場で、使用人(18)が日頃から想いを寄せていた主人の二女(16)にキスをしようとして拒否されカッとして手拭いで絞殺後にレイプ、金庫を開けようとしているところを主人の妹(24)に見つかりマサカリで頭部を殴って殺害、現金、株券、カメラのほかに猟銃を盗んで逃走した。翌日、山中で警官隊に追い詰められ猟銃を構えて対峙していたが、空き缶に散弾を詰めて火を付け爆発させて自殺を図り1週間のヤケドを負って逮捕された。
兵庫県有馬温泉の菓子屋の4人兄弟の長男で、中卒後に全国を放浪しながら窃盗を続け少年院にも入っていた。3ヶ月前に前科を隠して牧童として住み込み、家族同然のあつかいを受けていた。昭和35年3.15、最高裁で死刑確定。
昭和33年(1958).8.7〔19歳が主人一家3人を強盗殺人〕
兵庫県西宮市の自動車修理業宅で、修理工(19)が侵入し、主人(39)、妻(36)、母親(64)の3人を海軍ナイフで殺害、1万6千円と腕時計を強奪、小倉まで逃走したが金がなくなったため無賃乗車で戻って12日に自首した。7人家族の3男で、生活には困っていなかったが、金遣いが荒く遊興費欲しさに勤め先で窃盗を働こうとして見つかったもの。
昭和38年2.7、最高裁で死刑確定。
昭和33年(1958).8.17〔18歳の小松川女高生殺害事件〕
東京都江戸川区の小松川高校屋上で、定時制2年生女子(16)が暴行され絞殺。同1年生(18)の犯行で、完全犯罪をもくろみ新聞社や警察に電話したり、被害者宅に遺品を郵送するなど異常事件として騒がれた。4.20にも近くの女性(24)を暴行殺害。36.8最高裁で死刑確定、37.11刑執行。
少年の1審の死刑判決は戦後20人目、2審以降の減刑や恩赦で死刑ではなくなった者12人、誤審で無罪が1人、1審無期、最高裁死刑が1人、死刑確定7人目と当時報道されたが、これらは判決時少年だった被告の数で上記のとおりに死刑判決を受けた少年はもっと多い。
昭和33年(1958).9.1〔19歳ら2人組が主人夫婦殺人〕
神奈川県相模原市の肉屋で深夜1時、この店の従業員2人組(19,21)が押し入り、就寝中の主人(58)と妻(59)の頭をナタで殴って殺害、現金3千4百円を強奪して逃走したが、9.27に逮捕された。19歳が誘ったもの。2人とも死刑が求刑されたが、19歳は無期確定、21歳は昭和36年9.8に最高裁で死刑確定した。
昭和34年(1959).2.25〔高4の2人組が強盗殺人で死刑判決〕
長崎県長崎市の家具店で深夜2時過ぎ、私立海星高校定時制4年生(18,19)2人が押し入り、就寝中の主人(50)をノミとナタでめった打ちにして殺害、妻(48)に2ヶ月の重傷を負わせ、3万2千円を強奪して逃走したが逮捕された。中流の旅館と雑貨屋の息子で、商業高校の受験に失敗して同じ定時制に入ったが、半年前に別の暴力事件を起こして退学、また同じ学校に転校して親しくなった。学校にはほとんど行かずダンスやパチンコに耽ったため金が必要になり、1ヶ月働いてクビになったため恨んでいた家具店を狙ったもの。長崎地裁は2人とも死刑判決。
昭和36年(1961).5.31〔19歳がピストルを奪うため警官毒殺〕
熊本県熊本市の派出所で、写真現像業の平徹雄(19)が巡査(33)を殺害、さらに1.2キロ離れた場所でタクシー運転手も殺害して逮捕された。
商売がうまくいかずに10万円の借金ができ、強盗をするためにまずピストルを奪おうと警官殺害の計画を立てた。薬局の友人から青酸カリを手に入れ、事件の前日に派出所に行って巡査と知り合いとなり、深夜に毒入り缶ジュースを飲ませて毒殺、制服を脱がせて自分が着込み、ピストルと警察手帳を奪って派出所前からタクシーに乗って逃亡しようとしたが、運転手に怪しまれたため射殺したもの。レイプの前科もあった。逮捕時に「猫を殺したのも同じ気持ち。何も後悔していない」と語る。
元警官で町会議員も勤めた父親は躾に厳しくたびたび殴られた。中学までは成績もよく読書好きで生徒会長も勤めていたが、高校生になってからグレだし、1年生の時に本を万引きして中退、写真現像店をはじめた。
昭和38年5月死刑確定。昭和44年1.18死刑執行。
昭和38年(1963).11.6〔19歳が強盗殺人で死刑〕
北海道釧路市の雜貨商宅で深夜1時、バーテン見習い(19)が侵入して、就寝中の主人(74)と妻(60)の頭を所持していた斧で殴って殺害、現金1万8千円と通帳、腕時計を強奪して逃走した。パチンコ代欲しさ。一審無期だったが、昭和41年2.4、最高裁で死刑確定。
昭和38年(1963).11.26〔19歳がタクシー強盗殺人〕
東京都江東区で、運転助手(19)がタクシーをとめて運転手(29)を連れ出して包丁で刺してから溝で水死させ6千3百円を盗んで逃走、翌日に死体を月島に運んで海に捨てた。金に困ったもの。東京地検は「悪魔のしわざとしか思えない」と死刑求刑。
昭和39年(1964).1.19〔高1ら3人が家に帰る車奪うためタクシー運転手射殺〕
茨城県日立市で、高校1年生(16)3人が手製ピストルでタクシー運転手(32)を撃って、逃げるのを追い掛けスパナで頭を殴って殺害、タクシーを奪って東京の自宅に逃走したが、21日に捕まった。15日に福島県のガールフレンドに逢うため家出、帰りにタクシーに乗ったが、金が無かったので最初から車を奪う計画だった。3人ともタクシー会社重役など裕福な家庭。主犯は懲役15年の求刑だったが、反省もなく成人ならば当然死刑だとして水戸地裁は無期懲役判決を出した。
昭和39年(1964).8.14〔18歳がタクシー運転手を射殺して死刑判決〕
大阪府八尾市で、無職(18)がタクシー運転手(38)をピストルで撃ち殺し、タクシーを奪って逃走、広島で乗り捨て、現金1500円とラジオを強奪した。9.17に福岡県飯塚市で警官の職務質問を振り切って軽トラックで逃走、横転して逮捕された。福岡県宗像郡出身。
昭和40年2.26、大阪地裁は「異常な放浪癖と反社会性を持ち、労働意欲は皆無に等しく、一片の良心もない」と死刑判決を出した。11.12に高裁は、中学で両親を亡くすなど不幸な生い立ちも原因であり更生の機会を与えると無期に減刑、確定した。
昭和39年(1964).10.25〔20歳が主人一家4人皆殺しで死刑〕※参考
神奈川県厚木市の大工宅で、大工見習いの堀江勇(20)が主人の長男の小学4年生(9)と長女の小学2年生(7)の頭をカナヅチで滅多打ちにして殺害。その後に主人の妻(33)の頭をカナヅチで殴って殺害、帰宅した主人(34)の頭をカナヅチで殴ったが逃げたので薪割りで滅多打ちにして殺害した。現金21万円と貯金通帳を盗んで逃走、四国や九州で豪遊して逮捕された。新潟県南蒲原郡生まれで中卒後に工員となったが、2年前から大工宅に住み込んで修行をしていた。厳しい親方にいつも叱られており、妻や子どもたちにも冷たくされて恨んでいたと自供。最高裁で死刑確定。
※
「死刑囚 永山則夫」佐木隆三と
「死刑に処す―現代死刑囚ファイル」佐久間哲では、この事件を少年の死刑事例として掲載されていますが、検察調書を元にしている
「犯罪調書―17の事件簿」笠銀作によると20歳と23日目の犯行で、前2冊が間違っているのだろうと当方は考えています。
昭和40年(1965).7.29〔18歳少年ライフル魔〕
神奈川県大和市で、東京都世田谷区の無職(18)が警官をライフル銃で射殺。奪ったピストルでもう1人の警官に重傷を負わせてから、車を何台もハイジャックして、渋谷の銃砲店で店員3名を人質に130発を乱射し夕方逮捕。山手線もストップ。16人が重軽傷。
中流家庭で、両親は職をやめてぶらぶらしても何も言わず甘やかしていた。2審で無期から自ら望んだ死刑となり、昭和44年最高裁で確定。
昭和41年(1966).12.5〔17歳ら2人が元の職場で強盗放火殺人〕
福岡県福岡市で、整備工(20)と少年(17)の2人組が電気店に押し入り、金を出せと言いながら店員2人をハンマーなどで殴り、現金21万円を奪ってストーブを倒して放火して逃走した。店員1人が焼死し、1人が重傷を負った。
整備工は高校卒業後にこの電気店に勤めたが、セールスの失敗の穴埋めのため店のラジオを盗んで質入れして金を作ったのがばれて逮捕され少年院に2年間入っていた。その時に支店長が勝手に部屋に侵入して店から月賦で買ったステレオを持って行ったため弁償させようと押し掛けたが、支店長はおらずに店員を襲ったもの。少年とは少年院で知り合った。
整備工は最高裁で死刑が確定したが、火を付けたのは少年で、自分は放火はしていないと再審請求を出している。
昭和42年(1967).1.23〔16歳の混血少年連続レイプ殺人事件〕
千葉県柏市で、広域手配の元自動車修理工(16)が逮捕された。前年12.13、豊橋市の民家に強盗に入り主婦(24)をレイプして紐で首を絞めて殺害、フロに放り込んで2万円を奪って逃げた。12.27、千葉県我孫子町で空き巣に入り帰宅した主婦(28)を縛ってレイプして帯で首を絞めて殺害。逮捕の8日前の1.16、甲府市で強盗に入り三女(25)をレイプして電気コードで首を絞めて殺害、死体を鴨居に吊して1万円を奪って逃げたもの。
米黒人兵と日本女性との混血少年で、父親は朝鮮戦争で消息不明となり母親は別の米兵と結婚して渡米したため両親の記憶はほとんどなく、学校でも「黒人」とからかわれた。「道で擦れ違うとき必ずあざ笑う若い女性が憎かった」と自供。
18歳未満としては異例の死刑を求刑されたが無期懲役となり、38歳となった平成1年4月、合わせて22年の拘禁の後に仮釈放された。
昭和42年(1967).1.26〔19歳が結婚詐欺の清算殺人で死刑〕
東京都北多摩郡の飲食店経営者の笹沼充男(19)が、恋人の美容師(28)を母親に結婚の許しをもらおうと車で誘い出し、故郷の栃木県矢板市でハンドルカバーで絞殺、ハンドバッグと指輪を強奪、小金井市の玉川上水に死体を捨てた。6.5に死体が発見され、6.14に逮捕。去年の夏に27歳だと嘘を付いて交際をはじめ、結婚の約束をして60万円を騙し取り、ひつこく結婚を迫られたため殺害したもの。6年前に上京してから、いくつもの偽名を使って会社経営などをしていた。この年の大卒初任給26,150円。
一審無期だったが、昭和45年8.20、最高裁で死刑確定。なお、昭和43年4.8に弟の差し入れたノコギリで鉄格子を切って八王子拘置支所から脱走している。
昭和42年(1967).4.24〔19歳が娼婦4人殺害して死刑〕
愛知県名古屋市の旅館で、日雇い人夫の渡辺清(19)が売春婦(36)にコンドーム無しの性交を拒否されてカッとして絞殺、3万5千円を奪って逃走した。8.5に大阪府大阪市天王寺区の路上で客引きをしていた男娼(26)を刺殺して2百円を強奪。窃盗で捕まって殺人は発覚しないままに少年院に入った。
昭和47年4.10、24歳になった渡辺は大阪市のホテルで売春婦(39)と性交したあとに金が無いことを非難されたため絞殺、2千円を強奪。昭和48年3.20、大阪市のホテルで売春婦(40)を絞殺、2万2千円を強奪。
一審無期だったが昭和63年6.2最高裁で死刑確定。2件は無実と再審請求中。
昭和43年(1968).1.16〔17歳が幼女2人をレイプ殺人〕
千葉県船橋市の路上で、工員(17)が下校中の小学4年生の女の子(10)に駅への道を訊いて一緒に歩いているうちに物陰に連れ込もうとして抵抗されたので首を絞めて失神させてからレイプ、殺害した。東京都墨田区に住んでいたが中学生の時から船橋ヘルスセンターでひとりでゲームをしていて土地勘があり、工場をさぼってレイプ目的で幼女を物色していたもの。
迷宮入りとなり、警備員に転職、昭和48年2.17に船橋市の空き家で、小学5年生の女の子(11)をレイプして絞殺した。11.15に松戸市で幼稚園の女の子(6)の首を絞めてレイプした事件で、11.28に23歳になった男が逮捕された。11.24に仕事を辞めて、人目が少なく幼女レイプをやりやすい千葉県鎌ケ谷市で独り暮らしをはじめたところだった。それまでは両親と2人の妹と実家に住んでいた。
内気な性格で小学生しか友達がおらず、「大人の女性は自由にならないので子供を狙った」と50人以上の女の子や男の子に乱暴を繰り返していたことを自供。死刑が求刑されたが、涙を流して人間らしさを取り戻したとして、無期懲役となった。
昭和43年(1968).2.20〔中3が叔母をレイプしようとして従兄弟の幼児殺害〕
福島県須賀川市で、中学3年生(15)が隣家に押し入り、叔母(26)をレイプしようとして抵抗されたため包丁で顔や手に切りつけ10日間の傷害を負わせたが、叔母は逃げて助かった。その前に犯行に邪魔な叔母の長男(2)を外に連れ出そうとしたが戻ってくるので絞殺して2百メートル離れた池に死体を捨てていた。盗んだ自転車で宇都宮駅まで逃走、大宮行きの切符を持っていたが、夜に逮捕された。父親が3年前に死亡している貧困家庭の3人兄妹の2男。学校は休むことが多く、成績も悪く、内気で友達もいなかった。自宅にテレビが無いので隣家で見せてもらっていたが、先月から叔母が見せてくれなくなったため、母親と叔父が上京して留守だった機会に仕返しとしてやったと自供。医療少年院に入った。
昭和51年(1976).6.15、24歳になった男は、千葉県銚子市の民宿で主人の妻(24)をレイプしてコードで絞殺、長女(生後1ヶ月)が泣いたために絞殺、逮捕された。土木作業員をやっており、近所の工事のため仲間4人で泊まっていて、この女性が中学の時の初恋の相手に似ていたため深夜に1人で抜け出して襲ったもの。昭和55年3.11、最高裁で死刑確定。
昭和43年(1968).3.26〔19歳が車ではねてレイプ殺人〕
神奈川県川崎市の路上で、工員(19)が会社員女性(21)を小型トラックではねて連れ去った。3.28に狛江市の資材置き場で死体が発見され、逮捕された。これまでも会社の車で5人の女性に当ててケガをさせており、「驚くのが見たくて当てた。倒れたので見に行った。通行人がいたので連れ去った。病院に連れて行くつもりが気が変わってレイプした。顔を見られたので絞殺した」と自供。ほかにも空き巣に入って放火していた。公判では「死刑になることを覚悟しています」と話す。
一審で死刑判決が出たが、二審では「犯した罪は許せないが、まだ人間的に未熟な19歳の時の犯行で将来の可能性までも奪うことは忍びない」として無期懲役となった。
昭和43年(1968).10.11〔19歳の永山則夫4人連続射殺事件〕
東京都港区のプリンスホテルで警備員(27)が2発撃たれて射殺。14日に京都府八坂神社で警備員(69)が顔を4発撃たれて射殺。26日に北海道亀田郡でタクシー運転手(31)が射殺され8千7百円を奪われる。11.15に愛知県名古屋市でタクシー運転手(22)が射殺され7千円を奪われる。「連続射殺魔108号事件」として指名手配され、昭和44年4.7に中野区の元喫茶店員永山則夫(19)を逮捕。ピストルは横須賀米軍基地で盗んだものだった。
北海道網走市の極貧の家に育ち、中卒後上京して職を転々としていた。死刑判決を受け、平成9年8.1に執行された。
昭和44年(1969).9.1〔19歳がレイプ殺人で死刑〕
宮城県亘理郡の路上で、農業(19)が東北大学研究所技術補佐員女性(20)をナイフでめった刺しにしてからレイプして殺害、3日に逮捕された。一審無期だったが、昭和47年6.37に最高裁で「計画的で反省もない」として死刑確定。
昭和44年(1969).9.10〔19歳が幼児誘拐殺人 正寿ちゃん誘拐殺人事件〕
東京都渋谷区の質店の小学1年生の長男(6)が登校途中、無職の黒岩恒雄(19)に友達2人の眼の前で誘拐、殺害された。長崎県油町出身で、大金欲しさにテレビ映画「ザ・ガードマン」や吉展ちゃん事件を元に犯行を計画。誘拐後すぐに公衆便所で小刀で刺殺、死体入りのカバンを渋谷駅に預け「5百万円用意しろ。警察に知らせるとカタワにするか生きちゃいないぜ」という脅迫電話をかけていたが、11日に簡単に捕まった。
当初女優の誘拐を計画。200人の名簿を作成し、身代金取得後の使い道を事細かにメモしていた。高校をいじめで中退。格闘技を身に着けていじめた相手に復讐する計画も立て、50人の名簿を作成していた。5人兄弟の末っ子。できのいい兄に対してコンプレックスがあった。この事件以前にも脅迫、放火、少年(17)の誘拐未遂をしていた。
昭和53年1月、死刑確定。
平成4年(1992).3.5〔19歳の市川家族4人強盗殺人〕
千葉県市川市のマンションに店員(19)が強盗に入り、会社社長(42)、妻(36)、次女(4)、祖母(83)の一家4人殺害した。まず祖母を絞殺、その後に帰宅した高校1年生の長女(15)の眼の前で家族を次々とナイフで刺殺し、現金10万円を奪い長女をレイプしている。
2月に自転車に乗っていた長女を自動車ではね、病院に連れて行った帰りにナイフで傷を負わせてレイプし、生徒手帳で住所を知ってこの家を狙ったもの。2月にスナックのフィリピン人ホステスを連れ出して自宅に泊めたことから、暴力団員に2百万円を払えと脅されていたので、金がほしかったと自供。これまでにも女性を殴って3ヶ月の鼻骨骨折を負わせてからレイプする事件などを起こしていた。
平成13年最高裁で死刑が確定。
平成6年(1994).9.28〔木曽川・長良川連続リンチ殺人事件〕
9月28日、大阪府大阪市の路上で無職少年(19歳3人、18歳1人)の4人は、通行中の2人に因縁を付け、携帯電話等を強取し、逃げ遅れた無職男性(26)を近くのアジトとして使用しているビルに連れ込み、殴る蹴るの暴行を加え、ロープで首を絞めて絞殺し、車のトランクに詰めて高知県山中に遺棄した。
10月6日、愛知県尾西市の木曽川堤防で、この4人と無職少女(16)2人、無職(21歳、20歳)らは、解体工(22)がレイプ事件を警察に通報すると言ったことから殺害することを企て、殴る蹴るのリンチを加えて殺害した。
10月7日、愛知県稲沢市のボウリング場で3人に因縁を付けて車で拉致し、岐阜県輪之内町の長良川河川敷で鉄パイプでリンチを加え、会社員(20)とアルバイト(19)の2人を殺害した。
一審はひとり死刑、ふたり無期懲役だったが、二審は3人とも死刑判決。2011年3月10日、最高裁で3人とも死刑確定。
平成11年(1999).4.14〔18歳がレイプ目的で母子殺害〕
山口県光市で、会社員(18)がアパートに侵入し、主婦(23)の口を粘着テープでふさぎ両手を縛って絞殺してから押入に押し込み、長女(11ヶ月)を絞殺して首にひもが巻き付けたまま天袋に入れて何も盗らずに逃走したが、4.18に逮捕された。レイプ目的で「人間として大変恥ずべきことをした。今は涙が止まらない。胸が痛んでいる」と自供。3月に高校を卒業し、今月に会社に就職したばかり。
一審、二審は無期懲役判決だったが、最高裁は「罪責は重大で、量刑は甚だしく不当。破棄しなければ著しく正義に反する」として差し戻し、広島高裁は死刑判決を出した。
平成12年(2000).7.29〔16歳が金属バットで母親殺害〕
山口県山口市の自宅で、新聞配達員(16)が母親(50)を殺害した。母親の借金について問いつめたが使い道を答えず、また想いを寄せていた女性に母親が無言電話をかけたことからケンカとなり、金属バットで頭や胸などを数回殴ったもの。自分で警察に通報した。父親は平成7年に病死している。
平成15年に少年院を出てパチンコ店員をしていたが、平成17年(2005)11.16、22歳になった山地悠紀夫は大阪府大阪市のマンションに侵入し、姉妹(27,19)をナイフで刺殺して現金5千円を強奪して逃走、12.5に逮捕された。「母親を殴殺した時の感覚が忘れられず、人の血が見てみたかった」と自供。大阪地裁で死刑判決、控訴を取り下げて死刑が確定した。
※死刑について語る方は、最低でも『戦後死刑囚列伝』村野薫 宝島社 だけは読んでおくことをお奨めします。
※かなり抜けているので、ご存じの方はご教示ください。
上記に掲載したもの以外に、おそらく死刑になったか、少なくとも死刑が求刑されたであろう事件には以下のようなものがあります。どういう結末になったのかご存じの方はご教示ください。地元紙で調べれば判ると思います。
戦前はたぶん死刑になったであろうもっと凶悪な事件が多発していますが、数が多いので拙著『戦前の少年犯罪』をご覧ください。
昭和27年(1952).12.22〔19歳が保険金狙って両親と妹殺害〕
兵庫県神崎郡の自宅で、長男(19)が就寝中の父親(49)、母親(44)、長女(6)の顔や頭を斧で滅多打ちにして殺害、3男(9)に重傷を負わせ、手を洗ってからナイフでドアを傷付けて部屋を物色して強盗が入ったように偽装して知らない振りをして寝床に入って発見されるのを待っており、翌日追及されて自白した。姫路工大付属高校を3年前に中退して、豆腐屋を経営しながら夜間高校に通っていたが仕事が忙しくなったので2年前に中退、肝臓病で寝たきりの母親の看病もしていた。勉強好きで文学好き、新聞部では論説委員を務め、短歌や俳句に堪能だった。両親が5万円づつの簡易保険に加入したので、これが手に入ると好きな株ができると殺害を計画したもの。両親は弟と妹ばかりを可愛がり、とくに父親とは仲が悪く疎外感もあった。
翌日の取調べ中に心境を書きたいと紙と鉛筆を要求して「五臓六腑に五寸クギ、胸は早鐘血の涙、一時の迷い何故に三千世界を尋ねてもまたと二人となき親を殺せしわが身がにくしや」などと播州音頭調の文章を書いたりしているが、食事も平らげ、危篤状態の弟の容態などもまったく気にかけていない。
昭和28年(1953).10.29〔19歳が逆恨みで一家5人皆殺し図り3人殺害〕
愛知県東春日井郡で夜11時、農業(19)が二軒隣の農家に押し入り、主人(46)、妻(39)、三男(6)の3人を出刃包丁で殺害、長男(12)は1ヶ月、次男(9)は2ヶ月の重傷を負わせて逃走、アドルムを飲んで首つり自殺しようとしたが足が地面について失敗し、そのまま田んぼの中で寝ているところを翌日逮捕された。
怠け者で生活は苦しく、二日前に妻とケンカ別れして自殺することにしたが、どうせなら日頃意見をされて怨みのある一家を皆殺しにしようと包丁三本を持って襲ったもの。
昭和30年(1955).6.20〔19歳が恋人2人を殺害〕
静岡県浜松市の防空壕で、タクシー運転手(19)が恋人(16)を絞殺して死体を埋めた。6.14に巡査の長女の恋人と磐田市から家出したが、女がうるさくつきまとうため殺害したもの。7.8に詐欺で逮捕され翌日自供。昨年11.11にも婚約者(18)がしつこく結婚を迫るため同じ防空壕で首を絞めて殺害したことを自供した。
昭和32年(1957).11.20〔19歳ニートが姉ら三人殺害〕
愛知県北設楽郡の自宅で、無職(19)が姉(32)と姉の長女(11)長男(4)を殺害。
昭和33年(1958).5.21〔18歳が甥を誘拐殺人〕
愛知県碧南市の小学校内の貯水池で、4年生が腐った子供の足首を釣り上げ、水をかい出してみると幼児(6)の死体が発見された。昨年の12.16に誘拐され「60万円よこせ」という脅迫状が何通も届いており、死体に重しとして結びつけられていた鉄棒が幼児の叔父(18)のものだったため逮捕された。
昨年6.17、雪村いづみに脅迫状を送り、金を受け取りに現れたところを逮捕され、7月に少年鑑別所を出所していた。中2の時にこの池で溺れていた子供を救助して表彰されていたが、助けたのは発見者の4年生だった。
昭和37年(1962).1.25〔18歳が入院先の病院を放火し7人殺害〕
東京都北多摩郡の病院で、入院患者(18)が放火し全焼、老人7人が焼死した。手足をかみそりで切って自殺しようとしたが死にきれず、派出所に自首。
昨年6月から慢性腎臓炎で入院していたが、ラジオでジャズを大音量流し注意されると逆に音量を上げ、寝るように言われると外出するなど普段から態度が悪く、2週間前から「放火して皆殺しにしてやる」と話していた。
昭和43年(1968).12.28〔19歳工員が買物の行き違いから一家3人刺殺〕
栃木県那須郡の呉服店で夜10時前、鉄工所工員(19)が3歳の幼女含む一家3人を刺殺、1.9に逮捕された。靴下を注文したが足袋を出したため文句を言うと、店主の妻(33)が「たかが靴下で夜遅くに買いに来るなんて」等と言ったため激怒。傍にあった裁ち鋏で妻を数回突き刺し、靴下を取りに2階に居た店主(39)も刺殺。そして泣き出した妻のいとこの長女(3)を刺殺した。2年前に空巣で捕まっている。
昭和44年(1969).9.4〔19歳が両親をめった打ちして殺害〕
埼玉県大宮市で左官の父(60)と母(57)が殺され、左官の次男(19)が逮捕された。3日夜に仕事から帰ってきたとき食事の用意ができていなかったことに腹を立て、翌朝、寝ている両親を角材で殴り、縛り上げてから2百メートル離れたゴミ捨て場に運んでさらに頭をめった打ちにして殺害したもの。枯れ草が被せられていたが、死体は5日に発見された。日頃から父親に仕事のことで叱られていて、母親からも「怠け者」と言われ恨んでいた。以前にも母親を突き飛ばしてケガを負わせている。
※女には甘い判決でこんな同情の余地のない身勝手な事件でも求刑が無期で15年になってしまっていて、明らかに男とは違う基準で判決が出ています。
少女の死刑囚はおそらく1人もいないと思います。
昭和31年(1956).3.9〔19歳女子が結婚に邪魔な家族4人を皆殺し〕
東京都江戸川区で、家族が一家心中したと女子(19)が隣家に駆け込んだ。母親と小学校1年生の三男はすでに死亡。工員の長男(17)と中学2年生の次男が苦しんでおり、間もなく病院で死亡した。
「おまえは飲まなくていいよ」と母親が言ってから弟たちとジュースを飲んだと女は証言したが、追及すると勤め先の工場から拾ってきた青酸ソーダをジュースに入れて殺害したことを自白した。
昨年の夏に母親の勤め先の理髪店で知り合った青年に結婚を申し込んだが、「扶養家族が多いのは嫌だ」と断られた。そこで一家皆殺しを計画、家族でケンカをしたとき三男がジュースを飲みたいと言ったので、「それじゃ、ケンカの仲直りに」と毒入りジュースを飲ませたもの。
女は犯行が発覚しても顔色ひとつ変えず、留置されるとわかってはじめて泣き出した。父親は5年前に病死していた。
無期懲役が求刑されたが、母親とケンカしての発作的犯行であり、未成年であるため、東京地裁は懲役15年の判決を出した。
少年犯罪データベース主宰・管賀江留郎の著作第二弾。
『冤罪と人類 道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』
冤罪、殺人、戦争、テロ、大恐慌。すべての悲劇の原因は、人間の正しい心だった!
我が身を捨て、無実の少年を死刑から救おうとした刑事。彼の遺した一冊の書から、人間の本質へ迫る迷宮に迷い込む!
世界のすべてと人の心、さらには昭和史の裏面をも抉るミステリ・ノンフィクション!これぞ、21世紀の道徳感情論!
少年犯罪データベース主宰・管賀江留郎の本が出ました。
『戦前の少年犯罪』
戦前は小学生の人殺しや、少年の親殺し、動機の不可解な異常犯罪が続発していた。
なぜ、あの時代に教育勅語と修身が必要だったのか?戦前の道徳崩壊の凄まじさが膨大な実証データによって明らかにされる。
学者もジャーナリストも政治家も、真実を知らずに妄想の教育論、でたらめな日本論を語っていた!
| 少年犯罪データベース |