杉並切り裂きジャック 事件経過






第1回の犯行  昭和38年(1963)3月14日   A(10歳) 加療約10日間左側顔面切創

 昭和38年3月14日に第1回の犯行が行われたが、その前日に都立東西高校(仮名)の入学発表があった。
 山田一郎(仮名)にとって東西高校の試験は思ったよりやさしく気持がゆるんでいた。そして彼は、前から人通りのない処で年下の子供をやってやろうと思っていた。何故なら人通りのない処でやれば絶対に捉らないと思っていたし、子供をやったのは、女は可哀想だし、大人では自分が負けてしまうとの理由からであった。

 そして、チャンスがあったら少年を切ろうと思って、折りたたみナイフをポケットに入れて、午後3時頃、自転車に乗ってゆき、吉田町で、自転車ですれちがった被害者のA(10歳)に狙いをつけ跡をつけ、追いついた上つきとばし、自転車を止めて所持のナイフで左顔面にいきなり切りつけ、そのまま自転車で自宅へ帰った。



(参考)
 A少年は加療約10日間の治療を要する左側顔面切創
 この犯行で注目すべきことは、犯行の際にはその後の犯行のように性器傷害の目的があったとは思えず、むしろ可成り単純な傷害欲の表現としての偶然的犯行のように考えられる。
 予めナイフを所携していたことは、傷害の予謀の存在を考えさせるが、一方、家族及び被告人の供述によれば中学生の頃より何となくナイフを持ってあるいていたとのことであり、必ずしも、傷害の予謀があったとはいえない。翌日朝刊で「吉田町で学童切らる」との記事をよみ、反響を確認していることを記憶しているから、この頃からすでに社会の反響を敏感に気にしていたことが看取される。


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第2回の犯行  昭和38年(1963)7月14日   C(14歳) 加療約5日頭部胸部等打撲傷

 7月14日、日曜日、午前7時頃、山田一郎は散歩のついでに、子供を予め切るつもりで自転車に乗り、コマの紐、ナイフを準備して外出した。通称紅葉山(仮称)で、自転車を止め、昆虫採集の少年B(11歳)、C(14歳)の二人の両手をうしろ手に縛り合わせ、Bには猿ぐつわをし、更に道路より見えぬ処につれてゆき、Bの上衣を脱がせ、ズボンのバンドで胸のあたりを叩き、陰部を傷害しようとポケットからナイフを取り出したところ、Cが縛られた紐を解き、ナイフをもってた手を押さえてやめてくれと泣きつかれたので、同人の顔を2、3回殴り、縛った紐と猿ぐつわをしたハンカチを取り自転車で逃走している。



(参考)
 Bに対して加療約5日を要する頭部胸部等打撲傷を負わせる
 この犯行で注目すべきことは、ヒモ、ハンカチ等を予め周到に用意してゆき、地理的にも人に見られない場所を選び、遺留品を残さないように注意していることと、陰部の傷害は未遂であったが、その前に手を縛り、猿ぐつわをして上半身を裸にして殴っていることで、行為の目的が陰茎の傷害のみではなく、他の嗜虐傾向をも同時にもっていたことが分かる。


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第3回の犯行  昭和38年(1963)7月15日   D(11歳) 加療約4週間下腹壁切創兼外傷性睾丸脱臼

 7月15日、授業終了後、ヒモ、ナイフを持ってあらかじめ傷害の計画を持って、第2の犯行を行った紅葉山のすぐ近くで、被害者D(11歳)に自転車において接近して話しかけ、後手に縛り、人から見えない場所につれてゆき、ハンカチで猿ぐつわをした上で、陰部に切りつけ、泣き出した子供と出血におどろいて、ヒモ、ハンカチを遺留したままで逃走した。



(参考)
 少年Dに対して加療約4週間を要する下腹壁切創兼外傷性睾丸脱臼を負わせた。
 この犯行では、いきなり陰部切断を試みているがやはり縛り上げて、全身を裸にした上で行っており、手口に常同的傾向がうかがわれる。この犯行の手口は被告人がすでに十分に予定していった行勤と考えられるが、これは、38年4月より7月までの間に読んだ黒沼健「驚異物語」中の「切り裂きジャック秘話」が山田の空想を刺激したものと考えられる。


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第4回の犯行  昭和38年(1963)9月21日   E(12歳) 加療約10日間顔面前胸壁切創兼腹部刺創

 9月21日、土曜日の放課後、一旦帰宅し、午後4時頃自転車で東西高校の近くの雑木林に入り、山田の自転車で倒れたのを笑った被害者のE(12歳)、F(11歳)の二人に接近し、通行人のいないのをたしかめた上で「泥を払え」といい、あらかじめ用意した紐で二人を後手にしばり、道路より見えぬ処につれてゆき、助けを求める被害者のセーターをめくり上げて顔にかぶせ、ズボンを更におろそうとしたがうまくいかないため、シャツをめくり上げて上半身を裸にし、胸、腹部に刺傷、切傷を与え、紐を慰留したまま自転車で逃走した。



(参考)
 Eに対して加療約10日間を要する顔面前胸壁切創兼腹部刺創である。
 この犯行でも陰部の傷害の目的を有していたことは明らかであるが、被害者の抵抗と、ズボンがたまたま下がらなかったことから、体の他の部位に傷害を与えたものである。


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第5回の犯行  昭和38年(1963)12月23日   F,G(12歳) 暴行

 12月23日、午後3時頃、あらかじめ子供の陰部を切断しようとの目的で、紐、ナイフを持ち、自転車で松源寺付近の草原に行き、遊んでいた3人の子供のうちの2人(ともに12歳)の手を紐で縛ろうとし、振り切って逃げようとする2人を押し倒して殴り、通行人に気づかれてゴム紐を慰留したまま逃走した。




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第6回の犯行  昭和38年(1963)12月26日   I(13歳) 加療約2ヶ月を要する外陰部及び性器切断の傷害

 12月26日、冬期休暇の始めの日の正午頃、警察の警戒の有無を確かめ、ナイフと紐を持って、朝日町(仮名)の草原に出掛け、自転車は鍵をかけ置き、周囲を物色し、警戒のないことをたしかめた上で、たまたま通りかかったI(13歳)に話しかけてまず後ろ手に縛り上げ、上着を肩まで脱がせ、ナイフでシャツの前を切り裂いて下腹部を露出させ、陰茎をナイフで切断し、被害者をそのままにして自転車で逃走した。



(参考)
 Iに対して加療約2ヶ月を要する外陰部及び性器切断の傷害を負わせた。


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第7回の犯行  昭和39年(1964)5月3日   J(6歳) 療約2週間を要する左側頸部裂創、出血性ショックの傷害

  昭和39年5月3日の休日、朝8時30分頃、家人の就寝中にナイフを持って外出し、練馬区練馬町(仮名)の路上で5歳の被害者J(6歳)を見つけ、自転車をたて、近寄って来た子供の口を押さえて左頸部に切りつけ、自転車で逃走した。



(参考)
 少年Jに対して加療約2週間を要する左側頸部裂創、出血性ショックの傷害を負わせた。


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第8回の犯行  昭和39年(1964)8月   時価300円のノート、ゴム印等を窃取

 昭和39年8月、山田一郎は出身校である杉並区立A小学校に夜間侵入し、時価300円のノート、ゴム印等を窃取した。



(参考)
 この犯行は他の犯行と比較すると、一見かなり異質のようであるが、この犯行の目的が通常の窃盗と異なって、所有欲の満足ではないことは、犯行のやり方、窃取した品物の価格からみても明らかである。この犯行はたまたま、窃取した品物を後日、投書等に用いたために発覚したもので、「誰にも知られない秘密のことを俺はやりとげたのだ」という山田一郎のひそかな自己満足を求める衝動の一表現であり、他の犯行と同一の心理機制として説明しえるものと考える。


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第9回の犯行  昭和39年(1964)8月28日   K(10歳) 加療約3週間顔面切創

 8月28日、午後6時半頃、杉並区清水寺傍を自転車で走行中、文房具店で文房具を買った被害者K(10歳)を認め、これを尾行し、暗がりで肩をついて転倒させ、持っていたナイフで顔面をそに切って逃走した。



(参考)
 少年Kに対して加療約3週間を要する顔面切創を負わせた。
 事件の翌日、新聞に報道され、その記事で知った被害者の父親宛に、英文で書いた葉書を郵送している。その内容は、当時の吉展ちゃん誘拐事件や埼玉県の女子高校生殺し等で報道された記事をヒントにしてて書いたもので、金額、場所、服装を細かく指定するなど、如何にも脅迫状らしくみせているが、金銭を奪取する意志が始めからなかったようである。被害者の父親に葉書を出したのは「親ならば必ず警察に届けるから、世間に大きい反響を起こすだろうと思った」からであり、また英文で書いたのは「丁度その時、便せんがなかったので葉書を使ったが、それでは配達人が読んでしまい、相手に届く前に警察に届けられる」からだと後で述べており、その行為の経過、反響等につき被告人が細かく気を使っていたことがわかる。


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第10回の犯行  昭和39年(1964)8月31日   L(14歳) 加療約3週間陰部切創

 山田は、警察の捜査が厳しくなったことを察知し、同一区域内では警察が網を張っていて捕まると考え、かねて多少地理を知っていた埼玉県朝霞付近に8月31日、午前8時半頃にナイフ、紐等をあらかじめ準備して自転車ででかけた。
 そして神社境内で遊んでいた被害者L(14歳)を、神社の裏につれてゆき、後手に縛り、全裸とし、ハンカチで猿ぐつわをした上で仰臥させ、馬乗りになり、ナイフで陰部に切りつけたが、大声で助けを呼ばれたため紐、ハンカチは遺留のまま逃走した。



(参考)
 少年Lに対して加療約3週間を要する陰部切創を負わせた。
 9月2日の消印で、小学校宛に脅迫状を送りつけている。


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第11回の犯行  昭和39年(1964)9月3日   K(12歳) 加療約3週間顔面切創

 9月3日には、徒歩で通りかかった中野区大正町で、自転車を止めていた被害者M(12歳)を呼び止め、鍵を取り上げて、いきなり持っていたナイフで左耳を切ってそのまま逃走した。



(参考)
 少年Mに対して加療約3週間を要する右頸部及び右耳介切創を負わせた。
 9月7日宛の消印で野方警察署、又9月7日消印で野方警察署宛、又9月7日消印で警視庁広報課宛、9月7日消印で、野方警察署宛、9月9日の消印でS宛(英文)、9月17日消印で、大宅壮一、大浜英子宛に、それぞれ、挑戦的あるいは脅迫的な内容の投書をしている。これらの多くは新聞で報道された。被告人は一つ一つその反響を確かめつつ、つぎつぎ投書を行い、ひそかな自己満足に浸っていたものと推定される。


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第12回の犯行  昭和39年(1964)10月10日   N(10歳) 加療約一ヶ月下腹部、左小指切創

 10月10日、山田はオリンピック開会式の当日、全国民の関心が、オリンピック開会式のテレビ中継に向けられ、また警官の警戒が少ないことなどを考慮した上で、まず予告通り武蔵野市方面での犯行を企図し、午後1時30分頃、自宅を出て、8月に杉並区立A小学校から盗み出したレコード台帳に、適当なレコード名などを出鱈目に記入し、更に、このノートの持ち主か犯人であり、これまでの投書犯人と同一であることを証明するために、今までの投書に用いた裸体の少年の陰茎を切断している絵の、カーボン複写をとるための原図を貼り、その上、やはり8月に杉並区立A小より窃取した吉田の印を、割印し、裏表紙に、新聞に出た他人の名前を記入し、荻窪駅北ロ、青梅街道に面している交番の脇にわざと落とした。
 そして武蔵野市の路上で、付近を自転車で通行していた、被害者N(9歳)を後方からつき倒し、セーターを脱がせ、ワイシャツで後手に縛り、ナイフで下腹部2回刺し、泣く子供をそのままにして自宅に帰った。
 その後、20分程で急いで書き上げた、野方警察署長宛の投書を持ってわざわぎ中央線に乗って中野駅まで乗り、中野駅前南ロの交番に投げ入れた上、自宅に戻っている。



(参考)
 少年Nに対して加療約一ヶ月を要する下腹部及び小腸管脱出、左小指切創を負わせた。
 9月9日消印の野方警察署長宛の投書で「コノ次ニハ634ノ4アタリデ活躍スルツモリダ」と予告したが、この予告の実行を実際に試みている。
 10月10日の犯行後の投書には、前に予告した通り、武蔵野市で実行した旨が書かれ、切り裂きジャックの署名がしてあり、更に新聞記事の「脅迫状は無関係」の字句のうち「無」の字を切りぬいて、脅迫状の発信者が犯人であることを誇示している。
 わざわざ危険を冒して、交番に直接に届けたのは、当日は土曜日で郵便物の集配がなくもし郵送した時はこの脅迫状が報道されるのはかなりり遅れてしまい、あたかも犯行の新聞報道をみて、他人が投書したかに思われ、投書者と犯人が同一であろことの信憑性がうすれると考えたからであるという。
 このあと、10月14日の日付で、英文で、野方警察署長宛にJACKの署名で、10月10日の犯行の際の模様、被害者の着衣などを詳細に書き送り、更に、次回の犯行には、JACKと署名するむねの予告をしている。この予告は結局実行されず、刑事の聞き込み捜査が自宅付近にも及び、逮捕される危険を感じたので投書、あるいは犯行を中止している。


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犯人の逮捕 昭和39年(1964)12月26日   

 「確かにあの人そっくりだ。間違いないよ・・・・」
 昭和39年12月26日朝、「少年通り魔事件」特別捜査本部の調べ室で、容疑者の都立高校二年生山田一郎(17歳・仮名)の顔を見たL君(14歳・第10の犯行の被害者)は、別室にはいるなり係官にハッキリとしたロ調でいい切った。

 警視庁捜査一課の西尾刑事(仮名)は、L君の証言を聞いてもまだ半信半疑だったった。何故なら山田少年は頑強に犯行を否認しつづけているし、少年をクロと断定するには、もっと確かな証拠が必要だった。

 西尾刑事はふたたび杉並区の少年の自宅に車を飛ばした。「ふたたび」というのは、この日の朝、少年を自宅から捜査本部まで任意同行して来たのは、ほかならぬ西尾刑事だったからだ。

 山田少年の家は、閑静な住宅地にあり。父親は役付きの公務員で、生活程度は中流の家庭。午前9時半ころ、少年宅をたずねた西尾刑事が「息子さんの目つきが容疑者に似ている。モンタージュ写真を作りたいので協力してほしい」 と来意を告げたとき、母親にはツユほども息子を疑う気配がみえなかった。勤め先に電話して夫に伝えると、2階にいる息子を下から呼んだ。少年も素直に刑事のいうままに捜査本部について来た。二度目に訪れたときも母親のようすは変らなかった。

 「どんなご協力も惜しみません。その代り刑事さん、ひとつ意見してやって下さい。あの子はどうしても大学進学はいやだといって、私どもを困らせるんですよ。」

 西尾刑事はそのときはじめて、2階の6畳間にある少年の勉強部屋に通された。ところが、である。刑事自身が自を丸くするような動かぬ証拠品のかずかずが、間もなく少年の机の引出しの中から発見された。
 少年は、その日のうちに9件の犯行を自供し、30日までにさらに2件を自白した。



(参考)
 昭和41年に東京地裁で懲役3年以上4年以下の不定期刑が言い渡された。


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その後の犯行  昭和45年(1970)8月5日   中学3年生 カナヅチで3週間の傷害

 昭和44年(1969)8月18日、2年8ヶ月の刑期を経て22歳のときに川越少年刑務所から仮釈放されたが、4ヶ月後から20件の放火と窃盗を繰り返し、路上で中学3年生男子をカナヅチで何度も殴り付けて3週間の傷を負わせて、昭和45年8月5日逮捕される。武蔵野市のアメリカ軍宿舍で自動車3台を全焼、4台の窓に「ヤンキーゴーホーム」と赤ペンキで落書きしていた。
 「自分にとって犯罪は趣味であり、一種のスポーツであり、悪についてはその方法を考えることが快楽で、私はそれに溺れていた」と裁判において発言し、父親は
 「息子のことは前の事件の際に、被害者の方々の謝罪のために非常に苦労した。有り金すべてのほかに多額の借金をして被害者にお詫びをした。今度の事件では家も土地も手放して、被害者の方々にお詫びするほかない。こうした状況だけに、私としては息子にはもう一生刑務所から出てきてほしくない。もう一度刑務所から出てきても息子の性格が直っている望みは持てない。私が裁判長にお願いしたいことは、息子に二度と刑務所から出てこないような判決を下してほしいことであります」と証言した。



(参考)
 昭和47年3月31日に東京地裁は懲役13年を言い渡たした。


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犯人が送った脅迫文     家庭環境及び成長過程     精神鑑定



<杉並切り裂きジャックの表紙にもどる>







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『戦前の少年犯罪』 目次
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2.戦前は脳の壊れた異常犯罪の時代
3.戦前は親殺しの時代
4.戦前は老人殺しの時代
5.戦前は主殺しの時代
6.戦前はいじめの時代
7.戦前は桃色交遊の時代
8.戦前は幼女レイプ殺人事件の時代
 9.戦前は体罰禁止の時代
10.戦前は教師を殴る時代
11.戦前はニートの時代
12.戦前は女学生最強の時代
13.戦前はキレやすい少年の時代
14.戦前は心中ブームの時代
15.戦前は教師が犯罪を重ねる時代
16.戦前は旧制高校生という史上最低の若者たちの時代




少年犯罪データベース

13歳以下の犯罪

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少年犯罪統計データ

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